10月15日(水)
今日は店のことは書けません。
20年来、お世話になってきた方が昨日亡くなりました。
ここひと月あまり入院して闘病してて、まぁほぼ毎日顔見に通ってましたが昨日「その日」がやってきてしまいました。
あまりの喪失感に店開けるのも迷いましたが、それとこれは別というか・・・誰か来てくれれば気がまぎれるので営業しましたが、皆が帰ってからは彼のことばかり思い出して涙が止まらず早々に閉店してしまいました。
来てくれた方が居たら申し訳ありませんでした。
知らない人には興味のないハナシだと思いますが、自分のために、彼に会えたことに感謝し想い出を綴ります。
池田晃太郎さんと出会ったのは91年。
ワーナーミュージックジャパンに入社したての新人だった私は、渋谷にある東京営業所に配属された。
私は営業職ではなく、営業職を補佐する「販促課」という部署に配属されたが、同じ部署の先輩女性で慶野さんって方がいて、この人のところにたびたび無駄話をしに来る関西弁のオッサンが池田さんだった。
向こうは邦楽制作部の課長、こっちは入社したての新人でその時は挨拶程度だったと思う。
私を認識してくれたのは野球部の試合からだったんじゃないかな?
池田さんはワーナー入社前はノンプロで野球やってて、ワーナーの野球部の監督(っても来てニコニコしてタバコ吸ってるだけ)だったんっだけど、ここ一番で「代打オレ」で出てきてはシャープなバッティングでヒットを飛ばす腕前だった。
私の付き添い(?)で来てた弟と知り合ったのもこの野球から。
弟もこのときは知る由もなかったと思うけど、後々池田さんに世話になることになる。
池田さんとはそんな関係が1年ほど。
92年6月、いよいよ邦楽制作部に移動になった。
憧れのディレクター職への扉が開いた瞬間だった。
ワーナー在職中のことは色々ありすぎて、文章にはならない。
細かすぎてつながらないのだ。
ひとつ思い出すのは「部下を優先する上司だった」ということ。
経理をやってた方から聞いたんだけど、池田さんは部下の経費を優先して処理してた。
ワーナーは「金券制度」ってのがあって、各部署は割り当てられた金券の範囲でしか経費を処理できないシステムになってた。
池田さんは自分の方が経費を使ってるにも関わらず、まず部下の経費を優先して処理して、金券が足らない自分の経費は会社で処理しないで自腹を切ってた。
制作部の課長時代は、池田さんと私で小林幸子の担当をしてた。
当時「幸子プロモーション」の専務だったお袋と交流があったのもこの辺の頃から。
また、当時幸子プロ所属だったきみまろのCDをワーナーから出すことになるんだけど、このとき担当してたマネージャーがさっき出てきた弟だった。
生意気だった私は「きみまろを担当しろ」って指示を断った。
演歌をやるのも本意ではないのに、これ以上やりたくない仕事を増やすのが嫌だった。
池田さんは自分ひとりできみまろを担当し、ワーナーからCDデビューさせた。
全くヒットはしなかったが・・・
「バスストップ」で有名な平浩二、あと全く無名の木村ゆうきという演歌歌手も二人で担当してた。
池田さんは多分95年か96年にワーナーを辞めて、アップビートという会社を設立した。
96年の2月にワーナーを退職した私は、そのアップビートへ転職。
親父の会社の社員が辞めたため、欠員補充のため97年2月にアップビートを辞めて父の会社へ転職。
したけど、たった2ヶ月で親父と喧嘩になって退職。
そっから1年余り、親との交わりを絶ってた。
なんてことはない、ただの親子喧嘩だったんだけどこれを繋いでくれたのも池田さんだった。
「メシ食おうか」って電話あって、二人で焼肉食ってた。
ハナシの流れで親子喧嘩の話しになって・・・多分お袋が通報したんだと思うんだけど、謝りに行けって言われた。
今思うと喧嘩の話なんで「どっちが悪い」とかもないんだけど(どっちもどっちってこと)、「お前が息子なんだから、いいも悪いもなくお前が謝れ」って・・・
有無を言わせず「このままいくで」って車乗せられて実家へ。
ほどなく親子の絆が回復したのも池田さんのお陰・・・。
このあと、私はメディアファクトリーに勤めるんだけど、長嶋茂雄の映像作品作ることになって、音楽を冨田勲に頼みたいと・・・
ここで冨田勲につないでくれたのも池田さん。
MF辞めて、SEGA~第一興商~そして独立して、なんだかんだとメシ食わせてくれて相談に乗ってくれて・・・
店始めてからも、そこらへんで仲間とメシ食ったついでに寄ってくれたり、会社帰り(オペラシティからすぐ)に心配して様子見に来てくれたりしてた。
私がいまやってるThe DrugstoreのニュースをminpやYahooニュースに出してくれたのも池田さん。
顔出すごとに「先週まで入院してた」ってハナシをよく聞いてた。
「まぁ大したことあらへん」ってーんで、今回もまた「例の大したことない入院」だと思ってた。
事態がおかしいと聞いたのは先月中旬。
「どうも今回の入院はワケが違うようだ」と聞いて即面会。
大分弱ってたけど、まぁいつも通り「大したことあらへん」ってことになるよう願ってた。
一昨日顔出した時は、「朝から寝っぱなし」ってことで話しもできなかったけど、起きてたら起きてたで苦しいだろうから、気持ちよさそうに寝てる顔見て安心して帰った。
そして昨日、夕方少し時間あったので「顔出そうかな」と思ったけど、また寝てるの起こしたら悪いかなと思って今日(木曜)に行くつもりでいたら・・・
夜になって訃報が届いた。
泣きながらカレーを食べた。
弟、お袋、家人、共通の知人に連絡した。
いろんな人から電話がかかってくるんだけど、そのたびに涙が出て声にならなくなる。
みやびちゃん、沖田君、見知らぬ人たちが来てくれて、話してれば気が紛れるけど、みんな帰って一人になるとまた思い出して涙が止まらなくなる。
酒飲んで余計拍車がかかる・・・
結局そのまま寝てしまい今に至る。
冥福なんか祈ってもしょうがない。
池田さんに出会えたこと、ずっと見守って来てくれた事にただ感謝するばかり。
この喪失感・・・ただ存在してくれるだけでよかった・・・
伝えられないけど言葉にしておく
本当にありがとうございました。
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