2018年11月18日日曜日

In memory of Kyoko

私が現在の職場に着任した時、彼女は長期の休みを取っている最中だった。

ただ、勤務シフトの表に「玉寄京子」という名前を見ただけで、女性であることだけは認識したが、それ以上の情報は誰が教えてくれるでもなかった。

どんな人かは想像もつかなかったが、まぁ割とおばさんウケはいい方だと自覚していたので、まぁ何とかうまくやれるだろうと思っていた。

1週間ほどの休み明けに彼女は出社してきた。

風貌で言えば「小柄な老女」といった感じであった。

ただ、想像以上に言葉がキツイ。

「〇〇やれ」とか「××しろ」的な物言いをする。

普段の自分なら遠慮なく反発するところだが、どういうわけか全く従順に彼女に従った。

就職してからひと月ほどして、別な同僚の女性と職場の寿司屋で食事をすることになった。

そのことを話したら、当日にステーキだ何だと食いきれないほどの食事をホテル中から手配してくれて、その残り物を持ってホテルのBARへ移動して2次会的に3人で飲んだ。

結局、それが最初で最後になってしまうとはその時は思いもしなかった。

言葉はきついが、彼女はいつもみんなに気を配っていた、特に私はとてもよくしてもらった。

朝食当番のとき、夕食の当番の時、みんなに弁当を作ったり、持って帰れるようにおにぎりを作ってくれたり。

おかずが足りなさそうなときには洋食のレストランに行って余ったステーキをもらってきてくれたり。

食い物の事だけではなく、仕事でもとても辛抱強く私に付き合ってくれた。

調理場とはいえ何もできない私に、手持無沙汰にならないようすごく気を使ってくれていた。

私は彼女が大好きになっていた、変な意味ではなく人間として、先輩として。

それから1年ちょっと、彼女のおかげで仕事場がとても楽しかったし、毎日が楽しみだった。

私が彼女に従順に従っていたのも、彼女が根本的に優しいことを知っていたからだと思う。

そして先月、10月27日から休みを取って本島に娘さんと孫たちに逢いに行ってバーベキューをするとか言って那覇へ向かった。

私は内地からワーナーの同期の本田が来るので、すれ違いで休みを取った。

本田が内地へ帰って出勤したら、京子さんはまだ戻っていなかった。

現地で「クモ膜下出血で倒れた」という。

宮古で倒れなかったのが不幸中の幸いだと思った。

宮古より那覇の医者の方が幾分マシであろう。

それが11月4日のこと。

以降、毎日気が気でなかった。

もしかしたら休み明けに出勤して「玉のこと聞いた?」とかいつ言われるのかとビクビクしていた。

何日か前に「まだ何回か手術が必要らしい」とか聞いたので「手術が必要だということは回復の見込みがあるのだろう」と解釈していた。

そして昨日「玉寄さんの見舞い金を集めているので、一人3000円ずつ出すように」って言われた。

そうか・・・見舞金を集めているということは順調に回復してきているんだろう、と希望を持った。

今朝、朝食当番で片づけをしたら内線が鳴った。

内線かけてきた相手「テルかテツいますか?」

私「テルちゃん!内線だよ」

テルちゃんが戻ってきて言ったよ

「玉・・亡くなったってさ」

日本語は非常に厳しい、「希望」の反対側にあるものが「絶望」だった。

いま、絶望の真っ只中である。

何もやる気がしない・・・

英語のレッスンもキャンセルした・・・

作った弁当も食う気がしない・・・

ただボンヤリ彼女の事を想うだけである。

いや、二つだけやる気の出ているものがある。

「ふて寝」と「やけ酒」

しかし4時から仕事だ・・・

人生とは無情である

いま「サヨナラの向こう側」を聴いている。

あなたのやさしさ あなたのすべてを

「きっと」ではない

ぜったい忘れません

玉寄京子 享年60歳

身内以外では池田さんに次いで、私が愛した人間の一人がまた逝ってしまった